連休明けの大学構内は、まだいつもより学生の姿が少ない。
真面目に登校してきた者達も、英気を養うはずの休日をどれだけ思い々々に楽しんだのか
常日頃よりも疲れた顔をしている。
だらしなくネクタイを首から下げて、大欠伸をしながら自室のドアを開ける火村助教授が、
それらの学生と同じ理由で疲れているのかといえば、そうではない。
連休の狭間の3日間の平日も、休み明けの初日も、どうせ欠席する学生が多いのだからと
決めつけ、火村は講義をすべて休講にしていた。
もちろん火村自身はきちんと出勤して、なかなかまとまりのつかなかった、新年度のゼミ
生達の年間スケジュールの最終調整をしたり、自分の論文の下調べなどをして過ごした。
それどころか、前半の三連休も後半の四連休も、どこにも出かけず下宿の部屋にこもり、
本を読むか書き物をするか、飼い猫を構うか寝るか、それだけで過ごした。
そうしたことに理由などない。
それがいつもの火村の休日の過ごし方であった。
もとより火村は、警察から事件の捜査依頼がきたとき以外外出することなどほとんどなか
った――自分の楽しみのためには。
この暑くも寒くもない『良い季節』も、楽しみを分かち合いたい相手はいない。
ずっと、火村は独りでいる。
それでも学生時代は、同じ下宿に住まう者達と、つきあい程度に遊びに出たりもした。
けれどもう、そんな時からは十年以上も過ぎ、現在下宿の住人は火村一人である。
他人を避けていたつもりはなかった。
しかし、求めようとも受け容れようともしなかったということは、避けていたのと同じ
ことだろうかと、思うこともあった。
同時に、いまさらなにをどう考えようと、もう取り返しはつかないのだとも思う。
いつもは誰かかれか学生が居る部屋も、今日は火村だけだ。
その静けさは、日頃火村が望んでいるものであったが、いざそうなってみると、何か物足
りないような気がした。
ふと思いついて、机の上にあった灰皿を持ち、椅子を引きずって窓際に寄った。
窓を開けても、まだ入りこむ風に湿気は少なくて心地が良い。
火村は椅子に座り、その日出勤してからは初めての煙草に火をつけた。
煙は、一度ゆるやかに火村に巻きついて、消えてゆく。
陽の明るさは校舎横の樹の葉を透かして降りそそぎ、火村の顔に影を作る。
寂しいなと思い、瞬時にどうして、と自問する。
自分が望んだ道を歩いてここまで来た。不満などなにもない…はずだ。
でも真実は火村にもわかっている。
現在の自分になにが足りないのか。
毎年今頃の季節、こんな晴れた日には、欲しいと思いながら手に入らなかったもの――
傍らのぬくもりや、心を震わせる表情、それらを、もしかしたら与えてもらえるかもしれ
なかった男を、必ず強く思い出していることを。
おそらくあいつは俺のことなど記憶の片隅にさえ残していないであろうと、思い出すその
たびに、火村は自分を嘲笑う。
この大学に居るかぎり、自分は彼を思い出さなくなることはないということも、思い知っ
ている。
初めて彼――有栖川有栖を見たのも、声を聞いたのも、この構内だったのだから。
窓枠に腕を置き、その上に額をつけて火村は、今頃あいつはどうしているのだろうかと、
また、火村は思う。
時間の無駄なく講義を受けたい――たとえば一講義目を終えたら次は三講義目まで間が
空くなどということはなしに――と思ってみても、自分の思い通りに教授連が講義を組ん
でくれるはずもなく、どうしても空いてしまう時間がでる。
そんなとき火村は、自分が専攻する社会学以外の学部の講義を、遠慮なく聴講していた。
知りたいことは、まるで限りがないようにある。
自分の持っているそれは、向学心とか、そういうものではないということには気がついて
いた。理由も、疑問もなしに、知りたい。
――― ただの『欲』だろうかと思っていた火村は、後になってそれは、自分の均衡を
保つのに『必要』だったからだということを知る。
あちこちの学部に顔を出していた火村が、一番頻繁に通ったのは法学部の講義であった。
そしてそこで見い出したのは、犯罪というものと密に関わりのある法律の知識だけでは
ないこととなった。
有栖川という名前は、彼の友人達が呼び掛けている声で知った。
名を知りたいと思うほどに、彼の何に自分が惹かれているのか火村にはわからなかった。
他の誰かとなにが違うというのか。
顔も、肢体も、声も、動作も、特に変わったところはなにもない、男だ。
なのになぜ広い教室の中に足を踏み入れた途端彼を探し、そしてすぐにみつけだせてしま
うのだろう。
いつも、必ずと言っていいほど教室の一番後ろに一人で座る有栖川から、ほんの少し離れ
たところに火村は座っていた。
有栖川は、そんな火村に気づいてはいなかった。
だからといってどうすればいいのかと、火村は思う。
自分の中に今涌き上がっている感情が、どういうものかすらわからない。
小さな子供だったなら、友達になりたいなどと簡単に思え、そう言えたのかもしれない。
けれどもう自分はそんな子供ではないのだと、火村は俯くだけになってしまう。
そのくせ、まだ生まれてから21年しか経っていない火村は、身勝手な理屈をつけて自分
を動かせるような大人にもなっていなかった。
そしてある日、いつもより有栖川の近くに座った火村は、親族相続法の講義が始まって
まもなく、有栖川が原稿用紙の束を取り出し、右手横――火村の左手の横に伏せて積むの
を見た。次に新しい原稿用紙を自分の前に置き、次々と文字で桝目を埋めていった。
用紙は左下の隅まで書かれると、詰まれた山の上へまた伏せて置かれる。
なにを書いているのだろうか、と火村は気になった。
講義とは関係なさそうだし、卒論の時期にはまだ一年以上早すぎる。
手に取って読んでみたい…読んでみろ、と、頭の中で自分が言っていた。
もしかしたら有栖川は怒り出すかもしれない。
けれど、それがきっかけになって、どの方向へだろうと一歩前へ進めるかもしれないでは
ないか。
有栖川は時々なにかを考えこみ、そのあとにまた文字を綴っている。
火村は机の上に乗せている左手に向い、動け、と声にださずに指図した。
その紙の束を掴んで引き寄せろ。
有栖川が気づいて止めたら、興味があるから読ませてくれと頼めばいい。
ほら。 早く。
けれど火村の左手は少しも動かず、講義は終了し、有栖川は原稿用紙をまとめて抱え、
教室を出て行った。
これが最後の機会というわけではないと、自分に向かっていいわけしつつも火村は、もう
二度と自分から有栖川に声をかけることなどできまいとも、思っていた。
簡単なことだったのにできなかった。
それがこの先何年もずっと、自分を悔やませることになるとは、考えもしないまま。
「火村、起きてんのか?」
目の前で手をひらひらと振られ、火村はその手の持ち主を見上げた。
「めずらしいな、おまえが講義中ぼんやりしてるなんて」
見覚えのある学生だった。
けれどなぜ学生が、自分のことを呼び捨てにしたりするのか。
火村は眉をひそめて相手を見遣る。
「火村? 次空き時間だろ? おまえもたまには俺等とつきあえよ」
確かに見覚えはあった。
けれどこれは自分の教え子ではない――学生時代に同じ学部にいた奴だ。それもあの頃の
ままに若い姿で。
火村は驚いて周りを見まわした。
教室だった。
一人で思い出に沈んでいた自分の研究室ではなく、火村が講義をするときにもっぱら利用
する社会学部棟の第三中教室だ。
いったいどういうことだろう。
「しかしなぁ、火村。おまえ、そのぼさぼさの頭と皺くちゃのシャツは、どうにかなんな
いのか。元は悪くないのに勿体ない」
そう言われて、火村は自分を見下ろした。
確かに皺だらけの白いシャツを着ている。していたはずのネクタイもない。
ああ、これは、と火村は思い出した。
何度も洗って着心地よくほぐれ、面倒だからアイロンがけもせずに、学生時代毎日のよう
に着ていたものだ。そんな着方をしていたから、三ヶ月もせずにあちこちの糸がほつれ
始め、残念に思いながらも処分した。
そんなシャツをなぜ現在着ているのか。
「おい。どうしたんだよ」
「……今……今日は何年の何月何日だ……?」
「なに言ってんだ? ほんとに寝惚けてんのか」
「教えろ……今はいつなんだ」
「……19××年5月7日の一限めが終ったとこだよ。大丈夫か、おまえ」
火村は、自分が『あの日』に居ることがわかった。
なぜ、とか、そんなこと有り得るわけがない、などと考えることもせずに、自分はそこに
居ることを知った。
それならば、と火村は立ち上がった。
「おい! 火村! どこ行くんだよ!」
行く場所は決まっている。
あの階段教室だ。
その最上段の席で、背中を丸めて原稿用紙を文字で埋めていくはずの有栖川の隣に座ら
なければならない。
そうして今度こそ、手を伸ばして掴み取らなければならない。
火村は、講師である教授が教室の入口のドアに手をかけたと同時に、教室裏の階段を静か
に、けれど急いで駆け昇った。
そこには確かに、火村を違う未来へ導くための、有栖川が座っていた。
背後から小さく風が吹いてきて、そのあと、ドアが閉まる音がした。
「なんや君、そんな暇してんのやったら、今日も休みゃよかったやんか」
火村はゆっくりと顔を起こし、それよりもなおゆっくり、声のした方を振り向いた。
「……怒ってんのか……? 悪かったって……ほんまに連休前には仕上げられるはず
やったんや。けど、使うてた資料がずいぶん古いもんやったことがわかって、総取っ
替えせんきゃならないくらいに手直しせにゃあかんくなって……ってこれはこないだも
言うたな……」
まるで叱られた子供がいいわけするように、目線を逸らしてぶつぶつ言っている男を、
火村は不思議な気持ちでみつめていた。
どうして有栖川がここにいるのだろうか、と。
「せやけど君も酷いやないか。やっと仕上がったからちょっとだけ寝させてって俺言うた
やんか……だいぶ寝てしもうたけど……それなのに目ぇ覚めたらおらんし、一言くらい
書き置き残してくれたらええもんを……電話は君の部屋のんも携帯も留守電になった
まんまやったし……俺、いつ戻ってくるかと思うて、昨日はずーっと待ってたんやで」
火村はそっと自分の記憶を探った。
『大丈夫やて。連休の後半にはもう締切から解放されて悠々や』
4月の終りに、電話の向こうから聞こえた弾んだ声が耳に甦る。
「確か年末もそんなことを仰っていたようですがねぇ、センセイ」
『……今カタカナでセンセイ言うたやろ……』
「なら2日の晩に行くからな。休み中なにをするかは、その時に決めようぜ」
『おう。待ってる』
そして案の定、火村が合鍵を使って入った部屋の奥のワープロの前で、アリスは彫刻の
ように固まっていた。
動いていたのは、目と、指先だけだ。
どうせそんなところだろうと思っていた火村も、それが翌日、翌々日へと続いたあたり
から不機嫌になっていった。
アリスは仕事をしているのであり、わざと自分を蔑ろにしているわけではないと、理屈で
はわかっていても面白くなかった。
5日の午後、なんとかできあがったけれど、どうにも疲れたので少し寝させてくれと、
アリスがベッドにもぐりこんでしまったとき、それはピークに達した。
叩き起こして、自分は帰るから勝手にしろと、怒鳴りつけてやるつもりでベッドの横に
立ち、掛けている毛布に手をかけたところで、火村は動きを止めた。
そうさせたのは、眠っているアリスの姿だった。
十数年前、まだ『友人』としてしか接していなかったアリスが、なんらかの理由で火村の
下宿に泊まったときのことだった。
先に寝ついてしまったアリスを、火村は煙草を吸いながら、その横に座って見下ろしていた。
初めて見る、夜の薄明かり中ですぐそばに横たわって眠るアリス。
触れてみたいと思ってはいたが、触れようとは思っていなかった。
けれど。
まるで自分を抱くように、右手で自分の左肩を掴んで小さくなって眠っているアリスが、
やけに寂しそうに見えた。
それは多分に、自分の感情が入りこんだものだったのかもしれない。
それでも。
いつか誰かがアリス抱きしめるのだとしたら、それが自分であってはどうしていけないの
だろうと、そう考えてしまった時にはすでに、火村は手を伸ばしてアリスに触れていた。
アリスの肩にあるアリスの手を解こうとして、静かにその指先を握った。
アリスが目を覚ますのは必然だろうと思っていた。そうしてその通りに、アリスが目を
開けても構わずに、火村はアリスが自身で抱きしめていた身体を解く。
火村は、その時アリスが、真っ直ぐにみつめ返してきた自分の目の中に、なにをみつけて
くれたのだろうかと、思う。
ゆっくりと覆い被さるようにしてアリスを抱きしめた火村を押し戻そうともしなかった
ばかりか、火村の背中に両手をまわし、まるで、もっと強くとでも促すように、指先に
小さく力をこめてきた。
あのときから、アリスは自分を抱きしめて眠ることがなくなった。
それは、自分を抱きしめてくれる腕があることを、火村がそれを持ってい続けてくれる
ことを知ったからだ、と。
ゆったりと身体を伸ばして眠るアリスを見て、火村はそれを思い出した。
しかたねぇなぁ、と、火村は溜息混じりにつぶやいて、どう見ても「ちょっと」では起き
そうにないアリスをそのままにして、部屋を出た。
そうだ。
そんなふうな連休だったのだ。
ならば、どこからが夢で、どこまでが夢だったのか。
火村は、まだ自分の中に残っている独りきりの寂しさに、胸がざわついていた。
「……ずっと家にこもりっきりやったからわからんかったんやけど、外はずいぶんあった
かくなってたんやな。俺ひとり、なんか厚着しとって周りから浮いてたわ」
なにを言っても返事をしない火村に、アリスはあたりさわりのないことを話している。
「車で来たのか」と火村が初めて声をだすと、嬉しそうな笑顔を見せた。
「いや、なんか気が急いてたんで電車で」
「……おまえ、普通そういうときこそ車を使うんじゃないのか」
「せやかて焦って運転するのは事故の元やないか」
アリスは、やっと許してもらえたのかと、それまで置いていた距離を縮めるように火村の
傍らに寄り、窓際に立つ。
「……ええ天気やなぁ……君は車で来てるんやろ?」
「……だからなんだ」
「いや、別に……ドライブ日和やなぁ、とか思ったり……」
今しがたまで殊勝にしていたのにずいぶんと変わり身が早いと、火村は思わず苦笑する。
それでも、久しぶりに陽にあたって気持ちのよさそうなアリスに、火村は、
「ガソリン代はおまえ持ち、昼飯、晩飯付きならつきあってやってもかまわない」
火村としては、ずいぶん甘やかしたつもりで言ってやる。
「……先にどっか銀行に寄ってくれ」
連休を潰した詫びのつもりか、アリス少し眉を顰めながらも了承した。
それがまた可笑しくて、火村は笑う。
「窓、閉めといてくれ」
火村は灰皿を持ち、椅子を引きずって窓際を離れる。
「なあ」とアリスが火村に呼びかける。
火村が振り向くと、窓に手をかけて、明るい陽に包まれたアリスも振り返っていた。
「こんな日やったなぁ」
楽しそうに言うアリスを、火村はみつめる。
こうして自分に向かって微笑みかけるアリスがいることの幸福と、どこかでひとつ間違えて
独りきりでいるかもしれない自分に、少し泣きたくなった。
2002.5.6
おみ@管理人